(以下引用)
このエッセーは、「運動が苦手な子どもが輝く授業をつくろう!」と題された月刊専門誌「体育科教育」2019年3月号に掲載されたもの。
ヒャダインさんは「なぜあなた達体育教師は僕達にクラスメイトの前で恥をかかせようとするのでしょう?」と問い掛け、この号のテーマについても「『運動が得意な子は輝いている』と思ってるってことですよね?上から目線の差別意識丸出しじゃないですか」と切り捨てている。
今から6年前に掲載されたエッセーだが、24年12月にあるユーザーがX(旧ツイッター)で紹介すると、「名文だ」「一言一句同意する」と共感が広がった。
自分も体育でつらい思いをしたと訴える声のほか、「掲載した出版社もすごい」「体育教師側のアンサーを聞きたい」という意見もあった。
(中略)
ヒャダインさんは当時、どんな思いで寄稿したのか。取材を申し込むと、オンラインでのインタビューを快諾してくれた。
―寄稿の依頼が来たときはどう感じましたか。
正直に言いますと「我々にはこういう意見も受け入れる寛容さがありますよ」という体育教員っぽさを感じて、ちょっとむっとしまして(笑)。読んだ教員が反論できないように、あえて攻撃力の高い言葉を選んだんです。却下されるだろうと思いましたが、そのまま載ったので「すごいな」と思いましたね。
―少年時代、体育でどんな体験をしましたか。
週に3回、体育のたびに大勢の前で恥をかかせられるのは、人格形成において障害でした。鉄棒やマット運動もそうですし、特にサッカーのような団体競技では、足を引っ張る存在として無視されるのが本当に嫌だった。チーム分けでは誰も自分を欲しがらず、「僕は価値がない人間だからしょうがないんだ」とみじめに言い聞かせる。体育が自習にならないかと、いつも雨を心待ちにしていました。
―そうした気持ちに、教員も無理解だった。
運動が好きで、当たり前にできる人が体育教員になるわけですから、できない人の気持ちは分からないんですよ。僕が1人だけ走り高跳びを飛べないと、「できるまでみんなで見守ろう」なんて言い出す。できない人をさらし者にして、みんなが感動するコンテンツにしようとするんです。
(中略)
―体育を何とかやり過ごしている世代にメッセージをお願いします。
「大人になったらそんなこと関係ないぞ、こんなに活躍している同類がいっぱいいるぞ」ということをぜひ伝えたいです。体育では毎回恥をかいていても、漫画をたくさん読んでいるとか、歌がうまいとか、あなたには人と違った価値がある。そういう「自分の好きなこと」を寄る辺にして、襲い掛かってくる人格否定と戦ってほしいですね。
『体育科教育』2019年3月号の #ヒャダイン@HyadainMaeyamadさんのエッセイが大きな反響を呼んでおり、大変驚いております。そこで急遽、1/14発売の2月号に緊急企画「ヒャダインさんのエッセイに対して体育教師が考えること」の掲載が決定! ご期待ください!#体育科教育 #体育嫌い #体育 pic.twitter.com/NhRuASww3q
— 大修館書店プロモーション公式 (@taishukan_promo) December 24, 2024
この話題にネットでは
「このエッセイほんとよかった」
「そうそう、小・中学校って足が速い、ドッジボールが強い、その辺がスクールカースト決めるから」
「本当に一言一句同意しかない この世から消えるべき教科の圧倒的1位」
「何故出来ない子を人前でさらし者にするのか。 に大共感」
「保育所レベルではたいていみんな体を動かすのは好きなんよ。『体育』になった途端、苦手が出るよね…」
「社会で成功した人の意見を訊いてもなー(´・ω・`)」
「苦手なことが可視化(晒)される教科は他に音楽もある。自分のフィールド(得意・職業)にはその感性は及ばないってのは凄い面白いわ」
「私も体育は苦手教科だったが、他の勉強ができたお蔭か、それほど嫌な想いはしなかったと思う。逆に体育以外ができなくて似たような想いをする子は大勢いるはずだが、そこに配慮できてるか?」
「体育の授業中の私の気持ちをこんなにも正確に言語化してくれるヒャダインさんが正解。本当にそっとしておいて欲しかった」
「何度読んでも最高なヒャダインのこの文章。子供の頃、体育が大の苦手だった私の気持ちを代弁してくれてる。体育が嫌いで運動もスポーツも大嫌いだったけど、今、ジムに行くとインストラクターさんはとっても楽しくサポートしてくれる。つまり、子供の頃、運動が大嫌いになったのは体育教師のせいです」
「わかりすぎる 公開処刑なんだよな」
「よくぞ言ってくれた。掲載する側もよくぞしてくれた」
という声も。